今ここ
先日、くしゃみと鼻水が治まらなくて、仕事にも支障をきたしそうだったので、鼻炎の薬を飲んでみた。大人1回2錠のところを半分の1錠だけ。 もともと薬が効きやすい体質なのと、ここ数年間、薬らしいものを全く飲んでいなかったからか、面白いくらいに効いて…
真に「自由でありたい」思いが起こる人は、ほんのわずかであり、そしてそれはとても幸運なことだとパパジは言います。 多くの人がそうであるように、私にとっても人生の初期は、自我として生きるための手段を、とにかくたくさん身につけてきた時期だったと思…
先日、たまたま目にしたショート動画で、海外のある学校の授業風景がありました。 校庭で生徒は一列に並び、先生の質問に該当しない場合にだけ、一歩ずつ前に進みます。 「両親が離婚していない。」 「父親がいる家庭で育った。」 「子どもの頃、食べ物の心…
小さな頃、ひとつの思考(観念)を掴んだときのことを憶えています。 「(上手くいくためには)演じればいい。」 それはどこからかただ現れました。 あるがままのリアリティからかけ離れたようなその主張は、最初のうちはとても嘘っぽく、薄っぺらなものでし…
先月から何回か、友人にバイロン・ケイティのワークをやってもらっている。これまで自分でやったこともあったし、インナーチャイルドの癒し、コース(奇跡講座)の赦しにもずっと取り組んできたけれど、やはり誰かの前で偽りなくオープンにさせてもらうこと…
自我を強化するという言葉がありますが、自我は強化したり弱めたりするものではなくて、無いものです。 ただ、無いというのは、実体がないだけであり、一なる実在の表現としての現れ=あるものともいえます。 これは、夜見る夢を思い浮かべるとわかりやすい…
仏教では、「苦しみは執着が生む」といわれます。 この執着は、物理的な欲のように捉えられることが多いですが、私たちが何より執着しているのは、エゴの想念だと感じます。 この想念とは、特別性や恐れ、罪悪感、何よりも被害者意識です。 ですが、私たちは…
真理(愛)とは、理解を超えたものだと思います。 だけどそれは、理解しなくていい、どうせできないのだから、と諦めるときではなく、理解すべきことを理解したときに、明らかになるように思います。 理解=私が限界を迎えることでしか、サレンダー=理解を…
幼い頃から、完全な救いが必ずどこかにあるという根拠のない確信がありました。 だけどいくら探しても、この世界にはどこにも見つかりませんでした。 それどころか、求めれば求めるほどに、それはどんどん離れていくように感じられました。 日々にはもちろん…
癒しと隠蔽は、一見とてもよく似ています。 だけど私たちには、内に確かな羅針盤があります。幸せか、そうじゃないか、それは何より的確なバロメーターだと思います。自分をごまかしているときや隠蔽をしているときには必ず、違和感や苦しみがあります。 そ…
心理学者チャック・スペザーノのセルフセラピーカードでは、「怖れ」についてこのように述べられています。 「怖れ」とは自分の心から生まれるものです。自分を人や状況や物から引き離し、守ろうとする結果として「怖れ」が生じます。恐怖心を感じるのは、そ…
「1秒しかいらない。」 そんなパパジの教えとアドヴァイタが大好きです。 この世界で癒しと言われるもののほとんどは、積み重ねの結果だと思います。ですが、もしそれが救いなら、過酷な運命の中で生きのびてきた人、トラウマの深い人にとって、そのゴール…
苦しみのすべては、自我との同一化にしかないということが、体感としてやっと腑に落ちた気がしています。 個人としての私、そして「私のもの」=何かを所有する感覚が、罪悪感と恐れを生むのだと。 この「私のもの」という原初の所有の感覚は、身体に対する…
親しい人、愛しい人と一緒にいるときに安らぎがあるように、ひとつであるとき、分離がないとき、そこに幸せがあることを、ハートは教えてくれます。 だから、私たちはワンネスを求めます。 ひとつになれば上手くいくと。争いがない世界がきっと作れると。 そ…
自分を愛するということが、どういうことか、ずっとわかりませんでした。 そして今でも、この世的なやり方では、それは満たせないと感じています。 何かを獲得すること、価値を与えること、一般的には、そんなようなことが愛することのように捉えられます。 …
気づくまで、私たちは、相手ではなく自分の観念を見ています。 たとえば誰かに憤るとき、そこには、「それ(その言動)は間違っている」という思考があり、その奥には、「(それは)こうあるべき」という観念があります。 ですが、多くの場合、その観念は見…
サットサンに参加したくて、探していたのですが、日本ではなかなかしっくり来るところが見つからず、海外のオンラインサットサンに参加できればと英語の学習を始めた私。 学習の中では、ハイキングに行ったり、パーティーに行ったりするものの、意識や真我と…
「求めよ。さらば与えられん。」 イエスがそう言っていたように、私たちが「求める」とき、救いは必ず与えられると感じます。 もし、与えられないのなら、問題は、本当には「求めていない」というところにあるのかもしれません。 「求める」とは、何でしょう…
「真理を学んでいても、真理を本当に求めている人はほとんどいない。」 インターネットで探しものをしていたとき、ふと目にしたその言葉が、ずっと離れずにいます。 自分を振り返っても、本当にその通りだと感じます。 私たちは、神に祈るときでさえ、 「私…
月に2回ほど、心の自助会をやっています。 そこでは、本当の解決とは、問題が無かったと知ることだとつくづく思うのです。それは、これまでのエゴの解決法から、ハートのやり方へとシフトすることでもあります。 たとえば、ある人にカチンときたとき、私たち…
想念が思い浮かんでも、けっしてそれを追いかけたり、成し遂げようとすることなく、まず「この想念は誰に生じたのか?」を問うがよい。 こうして、「この想念が私に生じたのならばその私とは誰なのか?」を内に問いかけるなら、心は源に戻って静まり、すでに…
久しぶりにブログを書きます。 前回からどれくらい経ったんだろうと見直してみたら約半年でした。その間にいろんなことがあった気がするけれど、振り返ってみると、結局はマインドが騒いでいただけだったようにも思います。 騒がしいのも、問題を作り出すの…
真理の探求で目にする「私は何も知らない」という言葉。 自我が理解するならそれは、考えないように放っておけば良いとか、今を楽しく過ごせれば良いといった、まるで大いなるものへのサレンダーに見せかけた隠蔽や責任の放棄にもなるだろう。 覚者の多くが…
「今ここ」は、過去から未来という時間枠の中の一地点ではない。 それは真我のハートが住む場所。 時間も空間も、原因も結果も無いと知っている私たちの心の場所。 私たちは、そこから一ミリも離れたことはない。 実在はここしかないからだ。 時間も空間も存…
「何も起きていない。」 非二元論でよく言われるけれど、捉え方によってその意味が大きく変わる言葉でもあると思う。 「戦争を見ても何も思わない人になりたいの?苦しんでる人に何も感じない人でいいの?」 以前短い間、コースを一緒に学んでいた友人が残し…
ここのところコース(奇跡講座)から離れていたのだけど、昨日久しぶりにテキストを読んだら、やはり原点はここだなと思った。 知らず知らずにぶれていた軸が整った感じがした。 どれだけ頭で理解しても、朝目が覚めれば思考は身体との同一化を始め、まるで…
一般的に悩みの解決法と考えられているものとは、そのほとんどが直接的なアプローチではなく対処療法に過ぎないと思う。 私たちは、何かを得れば、達成すれば、自分の思うように事が進めば、悩みから開放されるように感じる。それらを追い求めているときの渇…
以前、クンダリーニレイキのOle Gabrielsen氏から受けたアウェアネスブレッシングというセッションが素晴らしくて、私も提供しているのだけどなかなかに人気がない。(でもとても素敵なので取り下げない(*´艸`*)) Ole氏はこれをアチューンメントではなくセ…
早朝にランニングをするようになってから、1年半くらい。 まだ暗い時間に家を出て、だんだんと夜が明けてくる感じがとても好きです。 人々の意識や思考が動き出す前の風景は、ただありのままにゆるされてそこにある気がします。 そのスクリーンにたくさんの…