昨日観ていたケネス・ワプニック博士の動画の中に、こんな言葉が出てきました。
「コースを実践していくと、真に人に優しくなれるのです。なぜなら、私たちがたいてい抱いている下心がなくなりますから。」
多くのスピリチュアルの実践では、スピリチュアルに偏りすぎて現実がおざなりになる、地に足が着かない、といった声がよく聞かれます。
それは、「あるべき形」ばかりが追い求められ、この「下心」が抑圧されることで、自己が解離するからかもしれません。(もちろん解離はあくまでマインド=幻想に過ぎませんが。)
この「下心」とは、あらゆるジャッジ(観念)であり、そのジャッジの投影が現実と言えます。
ですから、真に自己の中でワンネス(統合、スピリチュアル)を実践しようとするのなら、解離はされようがないように思います。
私たちは普段、この下心こそをとても深く隠蔽しているため、現実がなくては、自分が実はどれほどのジャッジを抱えているのかを知ることはできません。
そしてそれらは、見ないようにしたり、あってはならないものと否定され続ける限り、水面下で力を持ち続けます。
一度信頼を寄せてしまったその力(下心)がなくなるときとは、ジャッジがきちんと見られ、真理においてそれが存在しないと知られるときだけのように思います。
そして、この下心、ジャッジの隠蔽とは、スピリチュアルに限らず、自我の基本的なあり方と言えるかもしれません。
ジャッジを奥深くに閉じ込めてしまえば、より理想的な自分になれたら、あるいは誰かにそれを投影してしまえば、自分はそれを持たないものであれると私たちはどこかで信じています。
ですが、自分の中のそれを無いものと否定するほどに、どうしてかそれは外側からのジャッジとして自分のところに返ってくるのです。
とは言え、自己を自我だと信じる限り、ジャッジを正直に認めることはとても難しいことです。
だからこそ、私たちには真理が必要なのだと思います。
私たちは、分離した個人ではないということ、ジャッジとその現象こそが、自らの愛への抵抗を見せてくれているということ、自我の言い分とは真逆のその教えが、数々の下心を真理のもと(無)に運び去ってくれます。
奇跡講座の勉強会では、自分の中のジャッジを仲間の前でオープンにするということもさせてもらっていますが、これは互いに真理を学んでいるからこそできることであり、本当にありがたい気持ちになります。
そして、仲間のジャッジの告白でさえ、愛を求める叫びであり、そのベースには確かに神の記憶があることが伝わり、自分の中にある同じジャッジ(叫び)が癒されるのです。
私たちは、互いに違いを見ますが、ジャッジの基本的なパターンは同じであり、運命的にそれが現れる部分に多少の差があるだけのように感じます。
どんな極悪人や猟奇的な犯罪者であれ、その同じ衝動の根が、自我と同一化している誰もの中にあります。
その根は、根っこから引き抜かれない限り、運命によっていくらでも形を変え、芽吹いてくるのだと思います。
根っこ、つまり自己を自我と信じる限り。
優しさとは何なのか。
この世界でよく言われる優しさ、たとえば親切さや愛情深ささえ、自我の下心の補償であるのなら、それは真の優しさとは言えないのかもしれません。
優しさとは、自己認識の結果でしかないのだと思います。
私とは何か、それがすべてなのだと。
なぜならそのとき、私がジャッジをやめるのではなく、ジャッジする者がいなかったと知るからです。
以前にも載せましたが、マハラジの大好きな一文を、もう一度ここに残しておきたいと思います。
他者をあなた自身のように愛しているというふりをしてはならない。彼らとあなたがひとつであると悟らないかぎり、あなたに彼らを愛することはできない。あなたの他者への愛は自己認識の結果であって、その原因ではない。すべてを通して同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。「アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話」 ナチュラルスピリット社より