巷で目にする「スピリチュアル」という言葉は、「嵌る」「傾倒する」といった言葉や、それに対する批難とセットであることが多く、とても残念なことだとよく思います。
では、スピリチュアルとは何かというと、たとえばWikipediaにはこんなふうに書いてあります。
霊的であること、霊魂に関するさま。英語では、宗教的・精神的な物事、教会に関する事柄、または、神の、聖霊の、霊の、魂の、精神の、超自然的な、神聖な、教会の、など。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB
そして、人間は、誰しもがそんな側面を持っています。目に見えるこの身体だけでなく、霊性、精神やハートを持つ生き物です。
それなのに、そのことを忘却し、自己とはこの身体でしかないと信じることで、コントロールと支配欲に苦しむことが不幸だと思うのです。
もし、このスピリチュアルという言葉に対義語があるとするなら、それは、肉体、個我、自我と言えます。
ですが、今の日本で主にスピリチュアルと言われているものは、個人に備わった霊能力や特別な力であったり、また運命や人生を思うようにコントロールするテクニックなどのように感じられます。
これらは、スピリチュアル=霊性の信仰ではなく、むしろその反対、自我への崇拝と言えるように思います。
この信仰とは、宗教のように何らかの対象を信じるということではなく、自己そのものに対する認識です。
自覚しているしていないに関わらず、自己を霊、ハートだとみなしていないときには必ず、自分は肉体の子でしかないと、私たちは信じています。
スピリチュアル=霊性と自我を両立させるといった言葉も時々聞かれますが、そのように相異なるものを同時に信じることは不可能です。
そして基本的に、私たちの人生のスタートは、ほぼすべての人が、自己=自我であるということを繰り返し学びます。
個人としての名前、役割、性格、身体、付与した観念こそが自分であり、行為者として人生をより快適なものにしていくことが生きることのように感じています。
もしかしたら、ほとんどの人は、そこに疑問や苦しみを感じることはないのかもしれません。
だけど、もしそんな生に意味を感じられないのなら、同じ運命を送りながらも、全く違う道があるということを、ひとりでも多くの人が知ることができたら良いなと思うのです。
私は、死にたい人に対してよく言われる「生きていれば良いことがあるよ。」という言葉に、何とも言えない違和感を感じてきました。
人生に絶望する心は、もっと複雑で、もっと欲張りなのかもしれません。
どんなに良いことがあったところで、どこかに苦しむ人がいる限り、決して幸せにはなれない、そして行為者である限り、自分に対する罪悪感から逃れることはできない、もし正直になるなら、本当はみんなそうなのかもしれません。
米津玄師さんの歌の中で、
「誰かの居場所を奪い生きるくらいならもう、私は石ころにでもなれたならいいな。」
という歌詞があります。
私はこの歌詞にとても共感します。
自己を自我(肉体の子、行為者)と認識し生きることは、奪い、奪われ、傷つき、傷つける道です。
だけど、霊性の道は、私とは個人でも行為者でもなく、すべてであると学びなおしていく道です。
私=個人、行為者という感覚、生きることそのものに絶望している人には、必ず大きな救いになると自らの経験を通して感じています。
そのためにも、スピリチュアルというものが、正しく、身近で、あたりまえのものになってくれることを願ってやみません。