想念が思い浮かんでも、けっしてそれを追いかけたり、成し遂げようとすることなく、まず「この想念は誰に生じたのか?」を問うがよい。
こうして、「この想念が私に生じたのならばその私とは誰なのか?」を内に問いかけるなら、心は源に戻って静まり、すでに生じた想念も消える。ラマナ・マハルシ
気づくまで、私たちは、頭の中の想念をリアルだと思い込み、それが伝える不足感や罪悪感、恐れ、快楽への欲求に振り回されています。
ですが、内を癒していくと、少しずつ、これまで信じてきた観念や想念が緩んでいきます。頑なに信じてきたことが、握りしめられた観念に過ぎなかったことを知ります。
そして、私たちの誰もが、リアルではなく、それぞれの自分の観念を見て、互いに衝突していることがわかってきます。
とは言え、その観念をより良い観念に入れ替えたとしても、観念は観念にすぎません。
そして、観念とは、どのようなものであれ、異なる観念と常に対立し合うのです。
「私とは誰か。」
それを問い続けると、「私」もまた、思考の中にしか存在しない、実体のないものということがわかります。
個人の「私」とは、身体やモノ、そしてそれ以上に、あらゆる観念と同一化することで存続しています。つまり、「それを知っている」「私はそれだ」という所有によってのみ、その感覚は支えられています。
そして、成長し、たくさんの観念を積み重ねる毎に、「私」はどんどん強まり、それと比例して、恐れは増えていきます。
恐れる「私」は、守るために、心で誰かを攻撃せずにはいられません。そして、それは時に現象として、自分への攻撃という形で返ってきます。
私たちは、自分がどんどん不自由になっていることに気づきません。
あらゆる「それ」をさまざな観念で固め、ベールを掛け、守るべきその観念を脅かす者を排除することで、防衛しようとます。
すべてに「私」の知識がかけられます。
そのたびに、もう二度と、目に映るそれを純粋な目で見ることはできなくなるのです。
ありのままの純粋さを汚すことができるのは、「私」だけです。
ですが、「私とは誰か。」を問うなら、その純粋さは一度も失われたことがないことがわかります。
心が何も所有しないとき、何も掴まないとき、身体が何をしていても、私たちは自由です。
「私」とは、そんな自由の中に生じた小さな考えであり、掴まれないとき、それはどこかに消えてしまいます。
そして、あるがままを分ける「私」が不在のとき、すべてがあります。
私たちは、ここにある自由の上に、不自由というベールを、自らかけてきただけなのです。
ただ静かにしていなさい。
これが、人々の間に愛と平和を見出す方法なのだ。
「覚醒の炎 プンジャジの教え」