久しぶりにブログを書きます。
前回からどれくらい経ったんだろうと見直してみたら約半年でした。その間にいろんなことがあった気がするけれど、振り返ってみると、結局はマインドが騒いでいただけだったようにも思います。
騒がしいのも、問題を作り出すのも、常に心=マインドだけです。
心をただあるがままに、同一化することなく放っておくなら、それは、波のようにやってきては去っていく実体の無いものであり、私たちとは条件づけされたそれらの心ではなく、それさえも包み込む空のほうだということがわかります。
そしてその空こそが、決して失われることのない永遠の至福であることも。
それでもそれに気づくまでは、騒がしい心を満たし続けることが、幸せを掴むための道のように、私たちは錯覚しています。
頭の中にしかないマインドの声を、まるでリアルのように捉え、それを満たすために、右往左往しているのです。
ですが、心=マインドとはそもそも何であるかを知るなら、そこには決して、求めるゴールも、完全な平安もないことがわかります。
敬愛するパパジ(シュリー・H・W・L・プンジャジ)は、「心とは思考であり、思考とは私(自我)である。」と伝えてくれます。
そして、その私(自我)とは、突きつめてみると、あるがまま=全体からの分離の錯覚に基づいた、実体のない思考体系でしかありません。
実体がないがゆえに、アイデンティティ=対象との同一化のストーリー(思考)によってのみ、その存在が保持されているよう錯覚されます。
思考による同一化が無いとき、個人の私(自我)は存在することができません。つまり、純粋な今に、思考(私(自我))は触れることができないのです。
「今ここ」を知ることのない心=私=思考は、過去と未来(幻想)を行ったり来たりしながらも、決してゴールにたどり着くことはありません。
奇跡講座の中にも、
「探しなさい、されど見つけることなかれ。」
という、自我のやり方をとても明確に記した一文があります。
マインドを満たし続けようとするとき、「私」の外側にある多くは、「私」を脅かす敵となります。
ですから、それらに勝つこと、遠ざけることが、何より「私」を存続させる道となります。
だけど、怒りや憎しみは、誰よりも自分を蝕み続けます。
ありのままと戦うことを、探すことをやめるとき、勝つよりも無垢のままでありたいとサレンダーするとき、ずっと探してきたものがすぐ近くにあったことを、私たちは知ります。
そして、そこから離れたことなどなかったこと、これからも決して離れることはないことも。
戻る場所、帰る家は今ここにあります。
私たちは、永遠の至福から一度も離れたことはないのです。
実在とは自我が消え去った境地です。自我のアイデンティティを探し出すことで、それを破壊しなさい。自我には実体がないため、探究すればそれは自動的に消え去ります。
真我 ラマナ・マハルシ 福間巖 編・訳 ナチュラルスピリット出版社より