先月から何回か、友人にバイロン・ケイティのワークをやってもらっている。これまで自分でやったこともあったし、インナーチャイルドの癒し、コース(奇跡講座)の赦しにもずっと取り組んできたけれど、やはり誰かの前で偽りなくオープンにさせてもらうことは、偉大な力を持つと感じる。
バイロン・ケイティもコースも、まずは自分のジャッジに正直になることから始まる。
私たちは通常、人をジャッジしたり裁くことは良くないことだと考えているから、心にたくさんの不満を持ちながら、それを深く隠蔽している。
一般的な正しさや、多数のあり方と照らし合わせたり、「相手がいかに間違っているか」という周囲の共感を得ることで、私がジャッジしているのでなく、相手が間違っているだけだと思いこむ。
だけどこの隠蔽は、正しさへの強い信仰となり、それをもって間違っている人を攻撃することも厭わなくなる。そんなことが、これまであたり前のように繰り返されてきた。
もしくは、内面に自覚的な人なら、その攻撃は、ジャッジをしてしまう自分に向かい続けるだろう。
ジャッジの根っこには、恐れがあり、私は私がそれに侵害されてしまうと信じている。
だけど、心と向き合っていくと、その恐れのほとんどは、目の前の相手ではなく、過去の未消化が引き起こしていることがわかる。
そしてそのさらに奥には、私=他者と分離した個人、身体であるという感覚に基づいた根源的な恐れがある。
ジャッジに正直になることは、そんな恐れを開くことなのだと思う。
恐れを開いて、恐れとその奥にある寂しさや悲しみと共にあり、それらがそこにあって良いものとなるとき、心はそれらを超えていく。
強くなくてはならないとき、人は一番弱く、弱くあれるとき一番強いのだと何度も思わされる。
そして、強くなくてはならなかった心、恐れゆえに誰かをジャッジする弱さをオープンにできることを、本当にありがたく、何にも替えられないギフトのように感じる。
それは、互いを自我であると信じる限り、絶対にできないことだからだ。
私たちは、「問題をみつけて改善する」というやり方に、あまりにも慣れすぎている。
だけど、言いかえるならそれは「罪をみつけて償うこと」だ。
罪なんて大げさと思われるかもしれないけれど、ジャッジを隠蔽することも、正しさも、私は間違っていないという共感を求めることも、罪でありたくない心があるからこそ生じる。
だけど、相手に罪をみようと、自分に罪をみようと、結局のところは同じことなのだ。
罪を信じている、つまり恐れているのは私だから。そして、罪がある限り、それはいつ自分に降りかかってくるかもわからない。
私たちは、問題=罪のないところでしか、本当に自由になることはできない。
そして、実はそれこそが、私たちに与えられているたったひとつの選択だ。つまり、私は自我ではないという選択。
今回のセッションでは、自分を罪だと責める思いがたくさん見つかった。
この自責は、たくさん傷ついてきた人や、周囲の痛みに敏感な人ほど抱えやすい感覚だと思う。
だけど、自責も実は他責と変わらない。
そこには、私に罪を着せることで、無罪でありたいという複雑な心理がある。
私のこの身体は、その罪悪感の投影そのものだったのだと、腑に落ちたような気がした。
それでも身体は、その憎しみや重圧さえ当然のように受けとめ、ものを言うこともなく、ただずっと側に居続けてくれたのだ。
身体もふくめ、私のものだという所有の感覚は、そこに与えられた純粋さに蓋をしてしまう。それは、私はそれを知っている、判断できるという知識の所有もふくめて。
だけど、ジャッジを自覚し、疑いを持ち、調べる決意をするなら、ストーリー=マインドの世界こそが幻想だとわかる。
そして幻想のそのベールに気づくとき、そこに隠されていた、ずっとここにあったはずの光がみえてくる。
私という香りを纏わないそれらは、神の質だけをふたたび纏うものとなる。