「真理を学んでいても、真理を本当に求めている人はほとんどいない。」
インターネットで探しものをしていたとき、ふと目にしたその言葉が、ずっと離れずにいます。
自分を振り返っても、本当にその通りだと感じます。
私たちは、神に祈るときでさえ、
「私の願いを叶えてください。」
と言います。
それを手にすることが、自分のやり方が、幸せを掴むのだと信じて疑いません。
すなわち、幸せとは何かを、私が一番良く知っていると固く信じているのです。
真理を学ぶ人でさえ、悟る人はいなかったと知るよりも、私が悟る人になりたいし、何者でもなかったと知るよりも、素晴らしい何かでありたいのです。
もっと良くなれば、もっと素晴らしい人物になれたら、もっとこんなものを手に入れたら。もっと、もっと、もっと。
もしくは、
「あるもので満足しましょう。感謝しましょう。」
そうやって思いを抑圧し、謙虚さという「コントロール」によって、幸せを見出そうとします。
ですが、それもまた、違う観念を掴んでいるだけで、やっていることは同じです。
だから、もう一歩だけ、そんな思いが生じる源に戻ってみます。
何かを得たい、獲得したい、何者かでありたい、それらの思いの根底にあるのは、欠乏感です。
欠乏を知らない者が、何かを手にしたいと願うことはないからです。
そして、自己を「欠乏が可能なもの」と認識する限り、それを埋めるために「何かであること」は、常に必要となります。
ですが、その「何か」が、私たちを救うことはありません。それは、その欠乏に一時的な蓋をする力しかなく、欠乏が可能なものという自己へのその観念は、更に強固になるだけです。
そして、「コントロール」するもの=行為者であるということ。
私が行為者と認識される限り、行為の責任=罪意識は常につきまといます。
そうすると、その罪悪感は深く隠蔽され、外側に投影され、憎むべき人、被害者(自己)と加害者(他者、世界)という構図が、延々と必要とされ続けることになります。
そして、それこそが、この世界、因果(原因と結果)の世界と言えるかもしれません。
時間も距離も、因果の中に生じます。
そして、因果は、常に新しい因果を生み続け、そのサイクルは、輪廻さえ超えて続きます。
欠乏を埋め続け、罪を埋め続け。それでも、決して終わることはありません。
ただひとつの理解が生まれるまで。
源に帰るまでは。
私たちは、どこかで気づきます。
欠乏を真に満たすものとは、欠乏を埋めてくれる宝物ではなく、欠乏を知らない自己だけだということに。
罪悪感を真に満たすものとは、正しさでも、償いでもなく、罪のない自己だけだということに。
問題の根底にある真の原因は、自己に対する無知です。そして、必要とされるものは、その無知の訂正だけなのです。
そして、真の私たちは、すでにそれそのものであり、私たちが自己と錯覚してきたものとは、その中に無知が投影した幻影です。
獲得されるものは、いつか必ずそこから去っていきます。
去りゆくものを、真の幸せと呼べるでしょうか。
ですが同時に、その去りゆくものを見るものは何でしょうか。
そこに現れては消えていくすべてに気づいているものは何でしょうか。
それは、唯一の実在であり、幸せです。
幸せとは、来ては去っていくものではなく、永遠の実在であり、存在のすべてです。
するものから、在るものへ。
幸せを探すものから、幸せへ。
人生は、あなたの夢を全部叶えてあげるほど
不親切ではない。