奇跡講座の定期学習会を開催することになり、マニュアルを読み直しています。
なかなか難しいマニュアルの解読ですが、仲間がいることでモチベーションが上がります。
同時に、もう癒されたと思いこんでいた部分を直視する機会ともなり、まだそこに数々の隠蔽があることを知り、愕然としています。
とは言え、その闇が無意識に心を蝕み、投影として現れていたことを、本当はどこかでわかっていたようにも思います。
そして、マニュアルの中にある「闇による隠蔽は不可能」という言葉の通り、私たちは、自分には何一つごまかすことができないからこそ、心とは本来とても純粋なものだということもわかります。
すべての章が終了するまでに、そんな心のビジョンが見れることを願って。
せっかくなので、覚書きとして、こちらのブログにも一章ずつの記録を残していきます。
ただし、間違った解釈もまだまだありそうなので、あくまで私の感想としての記録になります。
一章は、まず「奇跡の原理」から始まります。
奇跡の原理は、5ページほどの短い内容で、簡潔な表現で書かれていますが、本来の意味ではなく自我の解釈に陥りがちな部分でもあるように感じます。
ケネス・ワプニック博士は、このたった5ページを長い一冊の本にまとめていますが、それほどに誤解されやすく、また自我は巧妙に真理を隠す、愛を偽るということなのかもしれません。
まず、最初に誤解されがちなのは、「奇跡」という言葉かもしれません。
私たちは普段、「奇跡」というものを、形状の中にあるように感じています。
思いがけず素敵なものを手に入れたり、素晴らしいビジョンを見たり、何かを成し遂げたり、愛すべき人々と実際に触れ合ったりということの中にです。
ですが、真理(実在)において、形状(移り変わるもの)とは幻影でしかなく、よって奇跡講座でも、形状を変化させることについては触れていません。
それらの変化とは、一時的な補償のようなもので、真の救いではないからです。
むしろ、形状=外側に力を見ている心こそ癒される必要があり、そのためには、外側に力を与えておきたい自我のメカニズムが理解されなくてはならないと感じます。
マニュアルの中に、「これは心を訓練するコースである。」とあるように、救い=解放の地点、そして力とは、形状にではなく、常に心にしかないということを何度も思い出したいと思います。
そして、まず一つ目の障害は、その地点=心に戻ることへの難しさだと感じます。
なぜなら、この地点の選択こそ、自我の滅亡がかかっており、よって自我は、外側に力を持たせることで、その道を閉ざそうとするからです。
その抵抗の凄まじさは、赦しを実践していくとわかります。
たとえば、人間関係で怒りや憎しみを経験し、その解放が、自分の心にあることを認めようとするとき、私たちには強い葛藤が起こります。
原理の中に「まず初めに浄化が必要である。」という言葉がありますが、これは、この地点に戻るときの葛藤に対する感情的な執着を指しているように感じられます。
ですが、そこで一歩立ち止まり、その葛藤の中身を調べることができれば、そこには罪への執着と、自他を罪から解放してしまうことへの恐れがあることがわかります。
自我は、自分であれ他者であれ、憎しみを保持し続けること、何かを罪と断定することが救いであると主張します。
これは、よくよく考えればとてもおかしな理論ですが、自分の中のこの衝動をきちんと体験することで、コースの要のひとつである投影を、深く理解することができるように思います。
心理学における投影とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまうような心の働きをいう。
私たちが、なぜ赦すことがこんなに難しいかというと、「自己のとある資質を認めたくないとき、他にそれを押し付けたい」衝動が働くから、つまり自分の中に隠蔽された罪悪感があるからです。
その罪悪感は、分離の感覚に必然的に伴うものであり、また「心の選択」への道を隠しておきたい自我の抵抗と言えるかもしれません。
そして、この抵抗=罪への執着が、投影の大元となります。
つまり、抵抗=罪悪感が投影元であり、形状が結果(投影先)ということです。
これは、私たちが普段認識している世界に対する見方とは、真逆になりますが、このメカニズムを理解することで、赦すことは少し容易くなります。
ケネス・ワプニック博士は、この「心の選択」の地点を「決断の主体」と呼んでいますが、そこが唯一意味のある地点であり、「奇跡」とは、この地点において、自我ではなく、真理(神の心、真我)が選択されることを指します。
また、「心を「綺麗」にする」「「浄化」する」のではなく、「「訓練」する」と伝えているのは、大切なことは、その中身を綺麗にすることではなく、この二者択一だけに力があると言えるからだと思います。
コースでは、この選択を、聖霊=正しい心と自我=間違った心と表現しますが、どちらも心だと混乱しやすいので、自我の想念を「マインド」、聖霊を「ハート」とすると、よりわかりやすいように思います。
私たちはつい、ネガティブな考えをポジティブに変えようとしたり、嫌いな人の良い面を探して自分を納得させようとしたりと、マインドと葛藤し、その中身を変えることに力を求めますが、どちらも自我の想念であることに変わりはなく、よってマインドの中身を変えることには、さほど意味はないということです。
奇跡とは習慣であり、意図せず起こるべきものである。意識的な制御下に置かれるものではない。
意識的に選択された奇跡は間違った方向に向けられることがある。
奇跡講座マニュアル編より
「訓練」とは、二者択一の選択において、常に真理を選ぶことができるように、神への信頼、罪なき自己への信頼を、私たち自身の真我であるキリストを通し、学びなおしていくことだと感じています。
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