奇跡講座のワークブックでは、まず目の前のテーブルやペンなどを、私たちがいかにありのままに見ていないかを知るレッスンから始まります。
ありのままとは、対象に何の意味づけもしないことですが、私たちは誰もが、ありのままではなく、自分の観念のほうを見ているからです。
たとえば、目の前にマグカップがあったとして、それは何をするためのもので、どんな意味があるのか。個人的なストーリーとしては、そのカップが大切な人からのプレゼントなら、そこに「これは貴重なものだ」という自分の観念を見ているかもしれません。
そんなふうに、観念とは、過去の人生でのさまざまな学びに基づいています。
つまり、「ありのまま」に「過去」「私」というフィルターをかけるのです。
そしてもし、このフィルターが優しい色なら、対象(世界)も優しいものとなり、暗い色なら、危険に満ちたものになりやすいと言えるでしょう。
ですから、私たちはよく、フィルター=考え方を変えようとします。
変える方法としては、認知療法、潜在意識やインナーチャイルドの癒しなどがあり、過去を捉え直すことで、フィルターを優しい色に近づけることができます。
そしてある程度までは、それらはとても心をラクにしてくれますし、生きやすくもなります。
ですが、フィルターはフィルターに過ぎず、完全にクリアになることはなく、また新たな学習により、いつその色が変わるかわからない不安定さとも、常に隣り合わせです。
そして私たちは、それぞれのこのフィルターが違うからこそ対立し合いますが、心理学や一般的な癒しができることは、あくまで互いのフィルターを同一の色に近づけることが限界なのだと思います。
ですが、その場合、マイノリティは常に排除されることになります。
だから、もしすべてに真に癒しを求めるのなら、フィルターを退かせる必要があるのだと思います。
フィルターがどれほど優しい色であれ、このフィルター(思考、観念)こそが、それそのものに与えられている純粋さを覆い隠すからです。
フィルターを退けるとき、何も知らない赤ちゃんが、目に映るあらゆるものに喜ぶように、今ここに既に奇跡があることがわかります。
そして究極的には、私と対象という分類も観念(フィルター)のひとつです。
これを実験的な方法で示してくれているダグラス・ハーディングという方がいたことを、先日ある方のブログで知りました。
実は、数年前にもYouTubeで、ダグラス・ハーディングの後継者であるリチャード・ラングの動画を観ていたのですが、その時は思考優位だったからか全くピンときていませんでした。
動画の中で、リチャードは、私たちが、実際には顔と顔を突き合わせたことは一度もないと言います。
なぜなら、私が相手を見るとき、私の顔はそこにないからです。
これは、科学的には笑い話のように思えますが、観念がゼロの地点では、私と対象という分離はなく、すべてがわたし(存在、在る)です。
つまり、一般的な「私とあなた」というコミュニケーションは、すでに観念=フィルターに色づけられており、私たちが見ているものは、相手でも対象でもなく、私=自我のフィルター(観念)だけです。
そして自我とは、分離の想念であり、恐れと罪悪感に支えられています。
では、ダグラス、リチャードが言う「私」がいないとき、つまりすべての観念から自由なとき、わたしとは一体何でしょうか。
観念から完全に離れて内側に向かうとき、それを知ることができます。
そして、本当に意味のある選択は、ただそのひとつなのだと思います。
「私」か、「わたし」なのか。
夢(観念)か、目覚め(実在)か。
ケネスワプニック博士が伝えているように、少しの目覚めというものはなく、完全に目覚めているか、夢を選んでいるか、どちらかなのだと思います。
それは、本当はとてもとてもシンプルなことなのかもしれません。
リチャード・ラング氏の動画はこちらです。
(全部で8部作になっています。)